「母の日参り」母の日に亡き母へ供える白いカーネーション母の日に亡き母を偲ぶ「母の日参り」
ゴールデンウィークから母の日にかけて、亡き母の墓前を訪ねたり仏前に花を供える習慣を「母の日参り」といいます。母の日には亡き母を偲び、供養することで生前と変わらぬ感謝や想いを伝えましょう。アメリカで母の日が制定された当時は、母が健在の人は赤いカーネーションを、母が亡くなっている人は白いカーネーションを胸に飾っていました。そのため、母の日参りで亡き母へ供える花は白いカーネーションが適しています。また、白いカーネーションは「尊敬」という花言葉を持っています。白いカーネーションを供える事で、亡くなっていても母に対する「尊敬」の気持ちを伝える事が出来るでしょう。
「母の日参り」母の日に亡き母へ供える白いカーネーション母の日の発祥とカーネーションを贈る理由
母の日はアメリカから日本に伝わった文化ですが、起源については諸説あるとされています。ウェストバージニア州に住むアンナ・ジャービスという女性が、亡き母のために開いた追悼集会が母の日の起源であるといわれています。
アンナの母であるアン・ジャービスは、アメリカの南北戦争の中、南北両兵士のケアを献身的に行い、貧しい人への寄付活動も行う「マザーズデー・ウォーク・クラブ」を立ち上げました。当時のアメリカでは女性の地位が低かった背景もあり、これは社会的にも大きな意味を持つ活動でした。アン・ジャービスが亡き2年後の1907年5月12日に、娘のアンナ・ジャービスは教会で亡き母を追悼する会を開きました。その際に、母のアンが好きだった白いカーネーションを参加者に配ったことが、母の日にカーネーションを贈るようになった起源とされています。
この活動は徐々にアメリカ全土に広まり、1914年に5月の第2日曜日が母の日に制定されました。ウェストバージニア州の知事が、「5月の第2日曜日を母の日にする」と宣言するに至った背景には、このアンナ・ジャービスの活動や働きかけがあったといわれています。アンナ・ジャービスのこれらの活動が母の日の起源とされており、白いカーネーションが母の日のシンボルと認識されるようになりました。
「母の日参り」母の日に亡き母へ供える白いカーネーション日本には明治末期から大正に伝わりました
1914年にアメリカで5月の第2日曜日が母の日に制定された当時、青山学院教授であったアレクサンダー女史が、アメリカの母の日を紹介しました。そこから日本国内に広まっていきました。日本では当初、皇后の誕生日である3月6日が母の日とされていました。第二次世界大戦後の1949年頃、アメリカに倣い5月の第2日曜日が「母の日」となり、日本国内に広く定着するようになりました。
「母の日参り」母の日に亡き母へ供える白いカーネーション亡き母の墓前/仏前に供える白いカーネーション
カーネーション全体の花言葉は「無垢で深い愛」ですが、色によって異なる花言葉を持っています。亡き母の墓前や仏前に供える色として適しているのは、白色のカーネーションです。母の日発祥のアメリカでは、亡き母を追悼する会で白いカーネーションを参加者に配ったことが、母の日にカーネーションを贈るようになった起源とされています。
母の日が制定された当時は、母が健在の人は赤いカーネーションを、亡くなっている人は白いカーネーションを胸に飾りました。また、白色のカーネーションは「尊敬」「私の愛は生きています」「純粋な愛」の花言葉を持つため、母の日参りに供えられるようになったとされています。
「母の日参り」母の日に亡き母へ供える白いカーネーション母の日には亡き母を偲ぶ母の日参りを
母の日参りに供える花は白いカーネーションが適していると紹介してきました。しかし、必ずしも墓前や仏前に供える花は白いカーネーションに限定する必要はありません。一般的に墓前や仏前に供える花は白色というイメージもありますが、亡き母へ生前と変わらぬ感謝の気持ちや想いを表現出来れば、白いカーネーション以外の花や色であっても問題ないとされています。母が生前好きだった花や好きな色を基調とした花束やアレンジメントも人気です。お供え花としては白色や紫色、淡いピンク色等を基調にすると、上品かつ穏やかな色合いのアレンジメントになるでしょう。
「母の日参り」母の日に亡き母へ供える白いカーネーション
母の日には赤いカーネーションの花を贈るのが定番ですよね。母の日の起源はアメリカですが、当時は亡き母の追悼のために、白いカーネーションを供えました。現在では、白いカーネーションは「母の日参り」で亡き母を偲ぶ花として知られています。